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カラブリア沖海戦( - おき かいせん)とは第二次世界大戦中の1940年7月9日にイタリア半島のつま先であるカラブリア半島沖の東48kmでイギリス海軍及びオーストラリア海軍の連邦で構成する連合国艦隊とイタリア海軍の艦隊の間で行われた海戦。イギリス側はカラブリア海戦(Battle of Calabria)、イタリア側はプンタ・スティーロ海戦(Battaglia di Punta Stilo)と呼称した。日本ではカラブリア岬沖海戦、プンタ・スティーロ沖海戦(プンタ・スティロとも)と表記する場合もある。 連合国側の艦隊はマルタからアレクサンドリアへ向かう船団の護衛(MA.5作戦)のために、イタリア側の艦隊はは北アフリカへ向かう船団の護衛のため出撃したものであった。 カラブリア沖海戦は主力艦に撃沈された艦艇はないものの、両軍は多数の艦艇を投入していたため、地中海における主要な海戦として数えられる。両軍は勝利を宣言したが、実質的に引き分けであった。しかし、この海戦以降、イタリア海軍の主力部隊は基地から出撃することを躊躇し、逆にイギリス海軍は積極的な作戦行動を行うようになった。 イタリアは多くのヨーロッパ諸国と同様に1941年まで第二次世界大戦は起こらないだろうと予想していた。しかし、ドイツ軍のフランス侵攻でフランス軍が劣勢になると、イタリアはドイツの成功に乗じ、1940年6月10日にイギリス・フランスに対して戦争を開始した。その頃、北アフリカのリビアに配備されていたイタリア陸軍は侵攻の準備ができておらず、イタリア海軍はリビアの陸軍・空軍に補給作戦を実施する必要を迫られた。 7月6日、4隻の商船からなる船団はイタリア領のトリポリ行きを偽装してベンガジへ向けてナポリを出港した。その翌日、アレキサンドリア所在の連合軍の艦隊が出撃したことを受けて、ターラントから補給船団の護衛部隊が出撃した。船団の護衛は3グループに分けられる。1つ目は船団を直接護衛する魚雷艇4隻と駆逐艦8隻からなるグループ、2つ目は船団の東方35kmを航行する重巡洋艦6隻、駆逐艦12隻からなるグループ、そして主力の戦艦2隻(コンテ・ディ・カブール、カイオ・ジュリオ・チェザーレ)、軽巡洋艦8隻、駆逐艦13隻のグループである。 一方、イギリス軍はマルタ島から非戦闘員の疎開などを行おうとしていた。そして、マルタからアレキサンドリアへ向かう二つの船団(MF1船団とMS1船団)の護衛のためにアンドリュー・カニンガム大将率いるイギリス海軍の地中海艦隊が7月7日から8日にかけての夜にアレキサンドリアから出撃した。この船団は6月28日のエスペロ船団の戦いで護衛部隊が弾薬を消費したため出発が延期されていたものである。出撃したイギリス海軍は3つのグループに分かれていた。巡洋艦5隻、駆逐艦1隻のグループと戦艦1隻(ウォースパイト)、駆逐艦5隻のグループ、さらに戦艦2隻(ロイヤル・サブリン、マレーヤ)、空母1隻(イーグル)、駆逐艦10隻からなるグループが参加した。また、陽動としてサルデーニャ島のカリャリ空襲を行うためジェームズ・サマヴィル中将率いるH部隊(戦艦ヴァリアント、レゾリューション、巡洋戦艦フッド、空母アーク・ロイヤル、巡洋艦と駆逐艦13隻)が7月8日にジブラルタルから出撃した。しかし、H部隊は空襲を行わずに引き返し、帰路イタリア潜水艦の攻撃で駆逐艦エスコートを失った。 7月8日の夜に連合国軍はイタリア軍の暗号通信を傍受・解読し、プンタ・スティーロから南東105kmの海上にいた艦隊に通報した。いくつかの情報はイタリア艦隊が戦闘を避けるため反転する可能性を意味し、実際にイタリア艦隊はイタリア空軍の支援を得るために、連合国艦隊をよりイタリア空軍基地に引きつけるべく北上する計画だった。一方でイタリア艦隊は最初の陣形変更中に技量的問題が発生し、何隻かの駆逐艦は燃料の補給にシシリー島(シチリア島)に向かわざるをえなかった。この時点で駆逐艦は計16隻となり、イタリア艦隊はこの戦力減少を受けてタラントに駆逐艦グループの応援を要請した。 7月8日に、イタリア空軍の爆撃機が連合国艦隊を空襲して軽巡洋艦グロスターの艦橋に爆弾が命中した。艦長と多数の乗員を殺傷したが、グロスターは予備の指揮所を使用して戦闘と航行を続行した。イタリア艦隊はそれらのイタリアused truck 機による空襲で連合国艦隊のほとんどに深刻な打撃を加えたと錯覚し、戦闘の準備に少なからず影響を与えた。 7月9日の正午にused trucks の艦隊は145kmの距離があった。速度の遅い戦艦ロイヤル・サブリンに合わせていた戦艦マレーヤの艦隊は距離を詰めることができず、カニンガム大将は戦艦ウォースパイト単独で前進した。他方で13時15分に空母イーグルはフェアリー ソードフィッシュ9機の攻撃隊を発進させてイタリア艦隊の重巡洋艦を狙ったが、いずれも戦果はなかった。 連合国艦隊の巡洋艦はウォースパイトの前方に展開した。15時15分にイタリア艦隊の主力部隊を発見し、2つのグループは距離21,500mで砲撃を開始した。イタリアの測距儀(距離測定器)は連合国艦隊の測距儀より優れた性能だった。連合国艦隊の距離測定は正確でなかったが、優れた照準により効率的に集弾が可能であった。双方の砲力は拮抗していると言えたが、2,3分も経過しないうちに距離は20,000mまで詰まり、連合国艦隊の射撃が優位に立った。 15時22分にイタリア艦隊の砲火は連合国艦隊の巡洋艦を捉え、指揮官のused truck for sale 中将は離脱を決めたが、ここでジュゼッペ・ガリバルディの射撃がネプチューンに命中した。命中弾はネプチューンのカタパルトと偵察機を破壊した。巡洋艦部隊は距離を開け、15時30分に砲撃が止んだ。 ザラ級重巡洋艦と見間違えられやすいイタリア軽巡洋艦の1グループは連合国艦隊寄りに接近しており、アルベリコ・ダ・バルビアーノとアルベルト・ディ・ジュッサーノはウォースパイトの射程内にあって射撃を受ける可能性があった。しかし、最適な位置にいながらウォースパイトはマレーヤを待って旋回を行い、ロイヤル・サブリンはいまだに後方に位置していた。 イタリア艦隊の指揮官イニーゴ・カンピオーネ中将はウォースパイトを引きつけることを決意し、戦艦2隻の行動が開始された。15時52分にジュリオ・チェザーレはウォースパイトとの距離26,400mで砲火を開いた。しかし、複数の艦艇が1つのused trucks for sale に射撃すると着弾測定を見分けるのが難しくなるというユトランド沖海戦の教訓から、イタリア海軍は照準を易しくするため1隻の艦艇は1隻だけ目標にすることにしていた。そのため、コンテ・ディ・カブールは砲戦に参加せず、マレーヤとロイヤル・サブリンに備えた。 ウォースパイトは2隻の砲撃を受けずに済んだが、連合国艦隊はイタリアの戦術を知らず、ウォースパイトの砲撃は分散した。ジュリオ・チェザーレの斉射のうち1つがウォースパイトを護衛していた駆逐艦ヘレワードとデコイに損害を与えた。15時54分にマレーヤがイタリア艦隊に混乱を起こさせようと射程外から射撃を開始した。イタリアの重巡洋艦隊は15時55分にウォースパイトを目標に射撃を開始したが、連合国艦隊の巡洋艦隊が戻ってきたのですぐに中止した。 15時59分にジュリオ・チェザーレの砲弾2つがウォースパイトの近くに着弾した。その直後にウォースパイトの381mm砲の砲弾1つがジュリオ・チェザーレの後部甲板に命中した。この命中弾は37mm対空機関銃の弾薬に引火し、火災で発生した煤煙が機関室の吸気口に吸い込まれボイラーの半分を停止しなければならなかった。ジュリオ・チェザーレの速度は18ノットまで下がり、コンテ・ディ・カブールが前進した。ウォースパイトは24,000m(26,000ヤード)以上も離れた地点でジュリオ・チェザーレに命中弾を出し、今日の移動目標に対する最長の命中記録となった。 ウォースパイトはジュリオ・チェザーレに渾身の一撃を加える優位に立ったが、後続のマレーヤが追いつけるように砲撃を中止して再び旋回を行った。マレーヤの測距員はイタリア艦隊が離脱行動を意図していることに気がついた。この時マレーヤからジュリオ・チェザーレへの砲撃は、2,500m(2,700ヤード)手前に落下していることが、ウォースパイトの砲撃の観測から確認された。 16時1分にイタリアの駆逐艦隊は戦艦を守ろうと煙幕を展開した。戦い方に関して現在もいくつかの議論があるが、連合国艦隊の戦艦は離脱を選択する機会を獲得し、イタリアの駆逐艦隊は煙幕内から魚雷の発射を試みるチャンスを作った。もちろん、煙幕の中でどのようにして目標を確認するのかということについても、議論の対象となっている。